4月度御書講義 開目抄 ② では「拝読範囲本文の講義」の内、3段目と4段目並びに、研鑽後の所感などを掲載しています。4月度御書講義 開目抄 ①と併せて2ページの構成で掲載しています。
4月度御書講義 開目抄拝読範囲第三段の講義
③『大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、』
「大願を立てん~」と、改めて大聖人の不惜の大願が示されます。根本として、この仏法は破られることがないとの宣言と拝せます。
無明を破ることが出来る宗教なのかどうか。これが最も肝心なことです。万人成仏の大法でなければ、結局のところ自身の無明を破ることはできません。無明を破ることが出来ないということは魔に破られるということです。故に、法華経でのみ、無明を破れるという大確信の表明であるとも拝せます。
4月度御書講義 開目抄拝読範囲第四段の講義
④『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。』
「日本の柱」とは主の徳。「日本の眼目」とは師の徳。「日本の大船」とは親の徳。すべてを師の徳と配して、師の徳に三徳の意義を込められているとも拝せます。
「日本の~」といわれていますが、謗法の国と化した劣悪な娑婆世界を救えるということは、末法の一切衆生をを救えるということで、悪世全体の救済のい誓願といえます。
また、この「誓願の心」に立ったからこそ、大聖人は一切の魔性を打ち破ることが出来たと拝することができます。
さらに「ちかいし願」とは大聖人の立宗の時の誓願です。仏とは誓願に生き抜く人の異名であるのです。
「私が、倒壊した国の精神の柱となろう。私が、混迷した思想の正邪を見分ける眼目となろう。私が、漂流した民衆を救う大船となろう、と、この偉大なる誓願は、大聖人の御生涯にわたって貫かれたものです」とは、池田名誉会長の開目抄講義、下巻のP93のものですが、大聖人の誓願の心を唯一受け継いだ創価学会三代の師弟の下、まもなく、池田名誉会長の会長就任50周年を迎えます。なんとしても、師匠にお応えする創価完勝の歴史を築いて参りたいと思います。
4月度御書講義 開目抄の追記
我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし、(御書全集・開目抄下234頁7行目~9行目より)
上記、4月度座談会拝読御書の範囲は今回の御書講義の拝読範囲の後の部分ですが、『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ』との対比について見てみると、「諸難ありとも疑う心なくば」に対して「諸難にもあえ」と、「天の加護なき事を疑はざれ」に対して「天もすて給え」と、対比することができます。
今回の拝読範囲以降、大聖人は、御自らの境地に立つよう、様々な角度から門下を励まされていきます。
4月度御書講義 開目抄の学習範囲の所感
開目抄を全体を拝するに、これでもかという徹底した論証。命に及ぶ窮地にありながら、万人救済という誓願に立ち、その御境涯から発せられる獅子吼。こうした一人の人間として、人間性の最高峰に立つ日蓮大聖人を拝するならば、「我義やぶられずば」とは、破られるわけが無いという大確信に立っているとしか思えませんでした。
万人成仏の妙法の信心に立って自身の無明を破らなければ、それは魔に食い破られるということ。無明を破れない命とはどういうことかについて、以下の御文がそくそくと迫って来ます。
佐渡御書の一文を通じて思うこと。
『世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し(御書全集・佐渡御書956頁13行目~957頁1行目より引用) 』
この御文は古今東西の世相を反映してあまりある人間の所作ですが、結局のところは虚しく愚かな生き様に通じていると思います。また、この姿は、無明に覆われた生命のたどる道ではないかと思われました。
『心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二たいとせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ、(御書全集・佐渡御書958頁9行目~12行目より引用)』
日蓮大聖人の人間の身体に対する仏法観の一つ。人間、いかに着飾ろうとも、その実態は動物の身に心を宿す存在で、それは糞のような身に金を包むようなものと。しかも、その心は肉体に比べてこそそう表現できるのであって、仏法に生きてこそ、真に価値ある存在となれるのが人間。とのこと。無明に覆われた生命にはこのことが見えることはないと思われました。
【実践の教学】
学会の庭で師匠を仰ぎお題目を唱えつつ無明を破る戦いが出来る学会員と、第六天の魔王の所領にどっぷりと浸かった一般の人々。このことを思うにつけ、友人との一対一の真摯な対話の重要性が身に染みます。「試練の嵐を恐れるな!」との師匠の叫びを我が命に染めて戦って行きたいと思います。それでこそ実践の教学です。⇒改めて、大百蓮華2010年4月号P70の上段「2嵐に揺るがぬ大樹と育て」を参照。
以上。