学会活動

怨嫉(おんしつ)の意味とは?池田名誉会長(先生)の指導と猶多怨嫉・況滅度後

創価学会の実践活動の根本は「信心」です。しかし、この信心を妨げる「一念」の在り方に、けしてあってはならない「怨嫉(おんしつ)」というものがあります。

創価学会員も人間(凡夫)であるが故に、種々の要因からどうしても、心に抱いてしまう「同志への種々の悪意」またそこから発する「同志の悪口」。

筆者は、概要そのように理解していましたが、もっと深く掘り下げるべく、「十四誹謗」や「猶多怨嫉・況滅度後」の意味を調べ、池田名誉会長(池田先生)の指導を学んでいくこととしました。

怨嫉(おんしつ)とはどういう意味か

「怨嫉」という言葉は、仏法用語であり、一般の辞書やネット上でも詳しくはありません。怨嫉の「怨」と「嫉」のそれぞれについては、

怨む(うらむ):相手の仕打ちに対する不快・不満の気持を、その人に対していつまでも持ち続ける。

嫉む(そねむ):自分よりすぐれている人をうらやみ、かなわない(しゃくだ)という気持から憎む。ねたむ。

とあり、教学小事典の494ページ(日蓮正宗教学小事典:創価学会教学部編)には、

怨嫉(おんしつ):法華経を説き行ずる者、すなわち正法を守る者をあだみねたむこと。

とあります。

これだけでは、具体的な実感に至りません。しかし、以下、十四誹謗(じゅうしひぼう)に関する内容の中に、怨嫉とは何かの「実感」に至るものがあると思いましたので、ご紹介します。

十四誹謗に見る「怨嫉(おんしつ)」

十四誹謗(じゅうしひぼう)とは、法華経譬喩品(ひゆほん)第三に基づくもので、14種類の誹謗正法(正法を誹謗する心・一念:謗法のこと)のことを言います。

日蓮大聖人の御書でも言及されています。

『悪の因に十四あり・一に[きょう]慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり」此の十四誹謗は在家出家に亘るべし恐る可し恐る可し(御書1,382ページ 松野殿御返事)』

14種の誹謗のうち、1番目から10番目までは、主として、正法を信受していない(信心していない)人がいだくもので、11番目から14番目までは、信心している人の謗法で、人に対していだくもの。すなわち、「信心する同志への怨嫉であり、いがみ合い」ということになります。

「怨嫉(おんしつ)」とは何か、の、内容を十四誹謗の以下11番目から14番目までに見ていきます。

⑪軽善(きょうぜん):仏法を信じている人を軽蔑すること。
⑫憎善(ぞうぜん):仏法を信じている人を憎むこと。
⑬嫉善(こんぜん):仏法の信者を怨嫉すること。
[嫉善]とは、さらに↓
正しい仏法(末法の法華経)を信受する者を嫉ねたむこと。
正法を信受する僧俗を嫉(そね)み妬(ねた)むこと。
嫉むことも妬むことも共に、他の勝れたものを羨(うらや)み憎む感情。
⑭恨善(こんぜん):仏道を修行する者をうらむこと。

以上の4項目の内容が「怨嫉」の意味を構成しています。

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十四誹謗(じゅうしひぼう)の全ては、以下となります。

  • ①驕慢(きょうまん):増上慢と同意。慢心。おごりたかぶって、仏法をあなどること。
  • ②懈怠(けたい):―仏道修行をなまけること。怠ること。
  • ③計我(けいが):我見と同意。自分の勝手な考えで、仏法の教えを判断すること。
  • ④浅識(せんしき):仏法の道理がわからないのに、求めようとしないこと。
  • ⑤著欲(じゃくよく):欲望にとらわれて、仏法を求めないこと。
  • ⑥不解(ふげ):仏法の教えをわかろうとしないこと。理解しようとしないこと。
  • ⑦不信(ふしん):仏法を信じないこと。
  • ⑧顰蹙(ひんじゅく):顔をしかめること。仏法を非難すること。
  • ⑨疑惑(ぎわく):仏法の教えを疑って迷うこと。
  • ⑩誹謗(ひぼう):仏法をそしり、悪口を言うこと。
  • ⑪軽善(きょうぜん):仏法を信じている人を軽蔑し馬鹿にすること。
  • ⑫憎善(ぞうぜん):仏法を信じている人を憎むこと。
  • ⑬嫉善(こんぜん):仏法の信者を怨嫉すること。
  • ⑭恨善(こんぜん):仏道を修行する者をうらむこと。

日蓮大聖人は同御書(松野殿御返事1,382ページ)でさらに次のように言及されています。

『忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり』

なお、大百蓮華H27年8月号39ページには、座談会御書(四条金吾殿御返事)の解説として、「信心即生活の実践は、独りよがりであってはいけません。たとえ自分に非がなくても、人の心が離れてしまう行動では、信頼を失い、信仰者として失格であることを教えられているのです」とありますが、十四誹謗(じゅうしひぼう)こそ、独りよがりの信心の典型ではないでしょうか。

また、これら十四誹謗を犯した者が受ける罪報について法華経『譬喩ひゆ品ほん第三』には、「常に地獄に処すること 園観おんかんに遊ぶが如く 余の悪道に在あること 己おのが舎宅しゃたくの如く」と、あります。

猶多怨嫉・況滅度後(ゆたおんしつ きょうめつどご)

ここで取り上げた「猶多怨嫉・況滅度後(ゆたおんしつ きょうめつどご)」とは、「如来現在猶多怨嫉。況滅度後(にょらいげんざいゆたおんしつきょうめつどご)」のことで、法華経法師品第10に記されたの文です。

法華経法師品第10には、「而も此の経は、如来の現に在すすら猶怨嫉多し。況んや滅度して後をや」(法華経362~363㌻)とあります。

つまり、

この法華経を説く時は釈尊の存命中でさえ、なお怨嫉(反発・敵対)が多いのだから、ましてや釈尊が入滅した後において、より多くの怨嫉を受けるのは当然である

という意味です。

釈尊の仏法で成仏が可能だった「正法時代」ですら怨嫉は多かった。ましてや、末法濁悪の今の時代にあっては「怨嫉」があることはあたりまえであるということです。

日蓮大聖人は御書の中で、しばしばこの文を引かれていますが、それは、御自身が「法華経を身読した法華経の行者」であることの根拠とされているからに他なりません。

時に、生命の底から忽然と姿を顕す「怨嫉」。この怨嫉との戦いこそ、人間革命・宿命転換への要諦ではないかと思えてなりません。

怨嫉(おんしつ)について・新人間革命の池田名誉会長(先生)の指導

まさに、怨嫉とは、「恐る可し恐る可し」です。

しかし、何故に、同じ正法を実践する同志が「怨嫉」に至ってしまうのか。また、その本質とは何かについて、『新・人間革命、第26巻の法旗の抄31』に、わかりやすい指導内容が掲載されていましたのでご紹介します。

▼以下、「新・人間革命 第26巻 法旗31」より引用▼

創価学会の原点は、「われ地涌の菩薩なり」との、戸田城聖の獄中の悟達にある。

地涌の菩薩は、末法濁世の社会のあらゆるところで、それぞれがあるがままの姿で正法を弘め、仏法を行じていく。この地涌の使命を自覚し、自分自身が今いる場所で、広宣流布のための戦いを起こすのだ。その時、何ものにも負けない地涌の生命が、わが胸中に脈打つとともに、諸天諸仏が守護し、無量の功徳に浴することができるのである。

しかし、その功徳、福運を消し、幸福への軌道を踏み外してしまうことがある。それは同志間の反目、諍いである。

山本伸一は、厳しい口調で語っていった。

「『松野殿御返事』には、十四の法華経への誹謗、つまり十四誹謗について記されています。

誹謗とは、”そしる”ことですが、そのうちの最後の四つは、軽善、憎善、嫉善、恨善といって人に対するものです。御本尊を持つ人を、軽蔑したり、憎んだり、嫉妬したり、恨んだりすることです。一言すれば、同志への怨嫉であり、いがみ合いです。

日蓮大聖人は、十四誹謗の罪は極めて重いので、『恐る可し恐る可し』(御書一三八二ページ)と、戒められている。怨嫉というのは、自分の功徳、福運を消してしまうだけでなく、広宣流布の組織を破壊していくことになる。だから怖いんです。

皆が心から団結できない。どうも、組織がすっきりとまとまらない。皆、頑張っているのに、功徳を受けられないでいる――そうした組織をつぶさに見ていくと、必ず、怨嫉問題が潜んでいます」

なぜ、御本尊を持った人同士が、時には幹部同士が、怨嫉し合うことが生ずるのか。

大聖人は、「十四誹謗も不信を以て体と為せり」(同九七ページ)と御指摘になっている。

皆が仏の使いであり、地涌の菩薩であることや、生命の因果の理法など、妙法を信じることができないところに、その根本的な要因があるのだ。

▲以上、「新・人間革命 第26巻 法旗31」より引用▲

全ては祈りから出発!とは、再三にわたり言われていることです。南無妙法蓮華経のお題目の実践(唱題)が根本です。苦しい時も題目。楽しい時も題目です。

 苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。(新版御書全集1554ページ:四条金吾殿御返事・衆生所遊楽御書より)