3月16日、この日を創価学会では「広宣流布記念の日」と呼びます。昭和33(1958)年の3月16日に、戸田第二代会長の下、男女青年部の精鋭6000人が集い、「広宣流布の模擬試験」と呼ばれる式典が開催されたのです。
その前年にあたる昭和32年の年末のことでした。戸田第二代会長は生涯の願業であった、会員数75万世帯を達成した後に病の床にありながら、当時、青年室長の池田名誉会長に言いました。「将来のために広宣流布の模擬試験、予行演習となる式典をしておこう」と。こうしてこの式典が行われたのです。
この式典の意義は、広宣流布の後事の全てを、次代を担う青年達に託す為、広宣流布の成就を想定して模擬的な儀式を行うことにありました。
広布後継のバトンを青年部に託す儀式
昭和33年3月16日12時40分、式典は池田青年室長の司会によって開始。式典開催の急報を受けて、取るものもとりあえず全国から集った6千人の青年部員に対して、戸田会長は次のように叫びました。
「われわれには広宣流布を断じてなさねばならぬ使命がある。それを今日、私は君たち青年に託しておきたい。未来は君たちに任せる。頼むぞ広宣流布を!」と。さらには「創価学会は、宗教界の王者であります」と。戸田会長が生涯をかけた広宣流布の勝利の宣言をしたのです。
式典は、戸田会長が、広宣流布の後継のバトンを青年部の一人一人に託す儀式となりました。
「3・16」の意義について、池田名誉会長は、「3.16は、師から弟子への『継承』の日であり、『後継』の弟子が立ち上がる日である。その意味で、この日は、永遠の『出発』の日である」、と語っています。
戸田第二代会長は、「広宣流布の模擬試験」の行われた翌月の4月2日にご逝去されます。
戸田会長のお身体の状況とご心境については、次の、池田名誉会長の「随筆 新・人間革命『3・16』の大儀式を偲びつつ」に拝することができます。
『前年11月に倒れられた時も、「大作はいるか!大作はいるか!」と、私を呼ばれ続けた先生。恩師は、その病を乗り越えられ、3ヶ月後の2月11日、58歳のお誕生日には、快気祝いをされた。医師も驚くほどの、奇跡的な回復。妙法の大功力を実証されたのである。しかし、先生の命は、燃え尽きんとしていた。死の方向へと進んでいた。それを知るは、先生ご自身と、真正の弟子である私だけであった。(中略)「3月16日に、広宣流布の模擬試験、予行演習ともいうべき式典をしておこう!」先生は、再起は不能であり、自らが、再び広宣流布の陣頭指揮をとることはできないと、悟られていた。御聖訓に「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(御書955㌻)と。「3・16」は、その御遺命のままに生き抜かれた先生の、不借の精神を永遠にとどめ、受け継ぐ儀式であった。また、先生から私へ、広宣流布の印綬が渡される二人の式典であり、師弟の不二の儀式であった』
3.16 広宣流布記念の日の意義は、広宣流布の後事の全てを、次代を担う青年達、『なかんずく、池田名誉会長に託す為の儀式』であったことがわかります。
戸田会長の後継を託す青年部への慈愛と薫陶
「皆に何か温かいものを食べさせてやりたい」。戸田会長の配慮によって、3・16の式典当日の早朝、全国各地から次々と到着する青年たちに、身も心も温まる「豚汁」がふるまわれました。師の慈愛が、若き青年たちを温かく包んだのです。
※ 我が地域に、大変にお世話になっているご年配の支部副婦人部長さんがいらっしゃいます。この方は、中学3年生の時に3.16の式典に参加されており、とにかく要領を得ず急遽参集したそうですが、「豚汁」のお出迎え以降、何か崇高な特別のものを感じずにはいられなかったと、常々申されています・・。
この式典に臨み、池田青年室長は、身体の衰弱で歩行が困難な戸田会長のために「車駕(しゃが):担ぎ上げる乗り物」を用意。青年部たちと作りました。それは、三国志に登場する蜀の丞相・諸葛孔明が、五丈原の戦いで四輪の車に乗って指揮をとった故事になぞらえたものでした。しかし、それを見た戸田会長は「大きすぎて、実戦には向かぬ!」と叱咤します。闘将の気迫を、身をもって愛弟子に伝えようとされたのです。しかる後、戸田会長は、その真心に応え、車駕に乗って悠然と会場に向かいました。
この時のことを振り返り、後に池田名誉会長は、「最後の最後まで、命を振り絞っての、愛弟子への訓練であった。そのありがたさに、私は心で泣いた」と記していますが、そのご心境は、戸田会長の事を誰よりも知る池田名誉会長でなければ理解し得ぬことであったでしょう。
3.16広宣流布記念の日の参考リンク
昭和33(1958)年3月16日式典「広宣流布の模擬試験」については、以下のリンク先が参考となります。
人間革命12巻 後継の章より 第7回 – sgi-kusunokiのブログ