学会活動

法華経の行者の祈り(広宣流布の誓願と折伏の実践)こそ第一

仏教の始祖・釈尊が晩年に説いた「生命の真実を明かした法華経」では、釈尊滅後の乱世・末法における「真実の教え」の果敢なる弘教、すなわち、広宣流布が強く強く訴えられています。

そして、末法広宣流布実現のために、法華経の肝心である南無妙法蓮華経の御本尊と唱題行を確立されたのが、日蓮大聖人です。

広宣流布実現のための「誓願」に立ち、果敢なる折伏・実践を貫かれた方こそ、【法華経の行者】である日蓮大聖人に他なりません。

日蓮大聖人は、「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ(四菩薩造立抄・御書989ページ)」と仰せです。

故に、日蓮仏法の信仰の根幹は、広宣流布実現の実践(折伏)を貫く【法華経の行者であり続けること】であり、「法華経の行者」として、信行学に励む人こそ、最も尊重すべき存在であるということです。

しかるに現代、法華経の行者の誓願に立って現実に実践を貫いている人は誰なのか。

いかなる権威ある組織・団体・著名人たりと言えども、いかなる秀逸な理由が述べられたとしても、【法華経の行者】を第一とせずに軽視した姿勢は、これ皆【邪義(じゃぎ:よこしまな教え)】と言わざる得ません。

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法華経の行者がいかに貴い存在であるか

日蓮大聖人は、世に乱立する仏教各派様相について、次のように仰せです。

『権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや(如説修行抄・御書503ページ)』

末法乱世においては、自らの悟りのみを求めて山林に閉じこもって修行することは、「おかどちがい」であって、現実に飛び込んで「法華経の敵」を破折する法華経の行者であらねばならない、と言われています。

また、真実の仏法が現実に尊い存在であるためには、この法を弘める「人」によって、世に仏法が弘められねばならないと仰せです。

『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し(百六箇抄・御書856ページ)』

法華経の行者の果敢なる折伏・実践、広宣流布への戦いがあってこそ、「人法ともに尊し」であるのです。

さらに、日蓮大聖人は次のように仰せです。

『此の経の行者を一度供養する功徳は釈迦仏を直ちに八十億劫が間・無量の宝を尽して供養せる功徳に百千万億勝れたりと仏は説かせ給いて候(新池御書・御書1,439~1,440ページ)』

「此の経の行者」とは法華経の行者に他ならず、法華経の行者がこれほどまでに貴い存在であることに驚異するばかりです。

法華経の行者たらんと集う創価学会の庭、すなわち、善智識の集いにあって、仮にも同志を謗るようなことがあれば、それがいかに重罪であるか。そのことを痛感せずにはいられません。

参考関連ページ:法華経の行者の祈り について

法華経の行者の祈り・誓願の祈りとは何か

大百蓮華2016年1月号の巻頭言で、池田先生(SGI会長)は次のように言われています。

『「法華経の行者の祈り」とは、「誓願」の祈りである。自らが「人間革命」を誓い、「宿命転換」を誓う。「自他共の幸福」を誓い、「立正安国」を誓う。
そして、その成就(じょうじゅ)のために師子王の心で戦うのだ。
創立の父・牧口常三郎先生は、自分だけの利益を願う「信者」であってはならないと戒(いまし)められた。
創価の勇者は、全生命を燃えたぎらせて、大宇宙にまで轟(とどろ)きわたる題目を唱えながら、勇猛に、誠実に、忍耐強く、菩薩の行動に打って出ていくのだ。』

勤行の御観念文にあるように、世界広宣流布と自身の人間革命と宿命転換を願い、自行化他の実践に打って出る「師子王」の一念こそ肝心です。

法華経の行者の祈り、即、誓願の祈りとは、仏・菩薩の祈りに他なりません。、仏・菩薩の祈りによって、諸天善神が動かぬはずはありません。必ず動き、諸天の加護は厳然です。

『祈りの叶うお題目の姿勢・あげ方』の極意は、広宣流布「誓願」の祈りにまず立つことです。法華経の行者としての行動の中に、自身の悩みも必ず解決していけるのが、創価学会が実践する、日蓮大聖人の仏法です。