題目根本・唱題根本

100万遍の唱題と題目を唱える回数は?1時間唱題を毎日!

百万遍(100万遍)の唱題。つまり、南無妙法蓮華経のお題目を100万回唱えると結果が出ると、昔から言われています。

 

筆者が耳にしているのは「1日、1時間唱題」という指導でしたが・・。

 

本当に、お題目は数多くあげないと功徳や効果がないのか?一日にどのくらいお題目をあげれば良いか?

 

お題目の功徳(唱題の功徳)と唱える回数との関係などについて、調査してみました。

100万遍の唱題と題目の回数についての説明

よく百万遍の唱題に挑戦とか一日10時間の唱題ということを耳にします。また、実際に筆者自身も経験し、筆者の周囲にもこれを実践した人やしている人はいらっしゃいます。

かつて、お題目を唱える数について、『一遍にして少なからず 百万遍で多からず』ということを聞いたことが何度かありますが、お題目の功徳や効果と唱える数との関係はどうなっているのでしょう。

高齢化の進行も関係しているのか、最近では、かなり早口にお題目を唱える人や、ペースの速い唱題会も見かけなくなりました。筆者自身も若いころにおような早口ではお題目が続きません・・。

早口の人が多かった筆者の若い頃には、何かあったら一万遍の題目。百万遍で現状打破。というようなことを多く耳にし、1時間のうちにあげるお題目も5千遍というようなことがありました。

かつてのことを振り返り、外面の状況だけ見ていると、本当にお題目は数なのか?中身なのか?という疑問に終始しそうなこともわかる気がします。そして、今の筆者自身、やはり、題目が少ないな、と感じている時は『数』ということにも意識はしています・・。

日蓮大聖人はどのように仰せなのか

『但日蓮一人ばかり日本国に始めて是を唱へまいらする事、去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間・昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱うる事は一人なり(御書全集1,393頁・松野殿後家尼御前御返事より引用)』

この仰せによると、「二十余年の間・昼夜朝暮に」とあり、唱えられる時はいつもと拝されます。

『是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば法華経を覚て如法に一部をよみ奉るにてあるなり、十遍は十部・百遍は百部・千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり、かく信ずるを如説修行の人とは申すなり(御書全集411頁・十如是事より引用)』

この仰せでは一遍題目の重要性に触れられていると拝されます。

かたや門下には、

『日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ(御書全集989頁・四菩薩造立抄より引用)』

とも仰せになられています。

池田先生の指導では1時間唱題(一日三千遍)

池田先生は、戸田先生の事業が難航していた時期に、朝から晩までお題目を唱えながら行動されたというエピソードを残されています。その池田先生はお題目のあり方について、かつて、以下のような具体的なご指導をされています。

※一日三千遍の題目とは1時間唱題です。

 

毎日三千遍の題目をあげて行こう、その一日三千遍の
題目があがると生命の回転が始まって来るのだ。
生命がきれいになって来るのだ。三千遍の題目があがると、
学会のリズムになって来る。常に三千遍あげれば
それだけ生命力が豊かになり、それ自体が行力になって来る。
ともかく、この半年間が勝負だ。就中二~三ヶ月が勝負だ。
題目をあげて魔を打ち破っていこう。
仏道修行で一番やさしいのは題目だ。
又、仏道修行で一番むずかしいのは題目だ。
しかし、一切の勝利の源泉、福運の源泉は題目にある。
[以上、池田先生の指導]

筆者の唱題と題目の数

一日1時間の量の題目で宇宙のリズムに乗る。何かあったら一万遍のお題目で打開。大きな課題は百万遍の題目でチャレンジを。これが筆者の基本スタンスです。これまでも、人生の節目となることは、百万遍の題目表を塗りつぶす度に確かに乗り越えて来ることができました。

また、若い頃は、今思えば「うつ病」気味であった筆者は、唱題開始からちょうど1時間ぐらいで気持ちがすっと楽になる状態を毎日経験していて、池田先生の指導が身に染みていました。そしてまた、何かあった時の一万遍は、題目の前と後では全然違う腹の据わった自分がいることに気づかされるのです。

具体的には1時間で3千編(約1年で百万遍)、3時間で一万遍(約3ヶ月で百万遍)というのが、無理のない目安だろうと思います。そして、在宅の時には、出来るだけ御本尊様の御前で唱えます(あたりまえ!)。また、職場や外出先でも、執念をもって唱えることに努力するお題目には効果を実感します・・。なお、筆者の唱題表はエクセルで作った一升千遍の四角いものです。

池田先生は信仰は義務ではなく『権利』であると言われています。権利である以上、誰から言われなくとも率先して実行するはず。お題目もまた、これと同じです。

また、教学の側面から言えば、末法濁悪の民衆として、第六天の魔王の所領に身を置いている以上、お題目から離れれば三毒に染まるのは必定です。それゆえに、日蓮大聖人は『南無妙法蓮華経』と唱える為の御本尊を建立されたのです。

要は、お題目に対する執念。それが題目根本の日蓮仏法であるのではないでしょうか。

もう、これだけお題目をあげたからいい・・という生命を克服していく。そのような、自主的に信仰の権利を遂行していける信心。これを磨いていこうと思っています。