懸案に悩み、対応に苦慮しつつも、しっかりとお題目をあげて学会活動に臨んでいると、時に本当に不思議なことが起こるものです。
普段、お会いできない部員さんにお会いできたり、たまたま寄った場所に、目的の部員さんに詳しい人が居たり・・。また、会合の設営の企画で、目的のものを購入しようとしていると、たまたま同じ物を頂いたり、より良いものが店舗に置いてあったりと・・。
こういうことは年中あることではありませんが、長い間の活動を振り返ると何回もあったように思います。
今回もまた、それは起こりました。
未来部も夏休みに入り、高等部のI君を創価ファミリー大会にお誘いしようと、訪問や電話をするものの、なかなか連絡がとれず、時間が過ぎ行く中、困っておりました。
I君は最近アルバイトを始めたとのこと。お母様との二人暮らしで、お母様も遅くまでお勤めに出ている家庭です。
たまたま必要な事務用品の在庫が少ないことに気付き、買物に出かけようとすると、妻も買物があるというので、いっしょに車で出かけることになりました。
妻をスーパーKに降ろし、私は別の事務用品の店に向かい、その帰りにスーパーKで妻を乗せて帰宅する、という段取りでした。
自分の買物を終えてスーパーKに着くと、妻は買物を終えて待っていました。その妻いわく、「今、Iさんの奥さんを久しぶりにお会いして・・」とのこと。
妻の視線の先を見れば、そこに、I君のお母様がいるではありませんか。
I君は今、アルバイトを休んで、実家に行っているとのこと。電話がなかなか繋がらなかった理由などがわかりました・・。
唱題クマさん
一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり
それにしても、妻と同行していなければ・・、あるいは自身、今日中にどうしてもという買物でもなかったので、出かける気にならなければ、あるいは時間がづれていれば・・、I君のお母様にお会いすることはなかったはず・・。
本当に不思議です。一言で言えば、諸天の加護・・ということなのでしょうか。
しかし、諸天の加護という働きも、本質は自身の仏界の涌現に他なりません。
『一念(いちねん)に億劫(おくごう)の辛労(しんろう)を尽(つく)せば本来無作(ほんらいむさ)の三身念念(さんじんねんねん)に起(おこ)るなり所謂南無妙法蓮華経(いわゆるなんみょうほうれんげきょう)は精進行(しょうじんぎょう)なり(御書(ごしょ)御義口伝790ページより引用)』という重要な御書の御文があります。
「本来無作の三身」とは、自身に具わる仏の大生命のこと。わが一念に「億劫の辛労」を尽くすことで、その大生命を、瞬間、瞬間、湧き出すことが出来る。仏の智慧と生命力が湧(わ)き上がってくる。ということです。
まだまだ、広宣流布の活動に徹しきれない自身ですが、今回体験した一事は、「本来無作の三身念念に起るなり」のわずかではあっても、その一分ではなかったかと思うのです。
関連リンク⇒唱題の功徳