唱題の功徳についての新たな発見がありました。功徳とは反対なのが「罰」。罰もこれを受けることで、信心の修正がなされれば「功徳」と言えるのですが、十界論を功徳と罰という観点から見る、というのは、自身にとって初めてのこと。驚きでありました。
本日、我が県にある、某研修センターでの日帰り研修会参加のための「指導会及び納金」に、某地域中心会館に行きました。今回の研修会リーダーである総県長を導師に勤行から開始、説明と指導・納金で40分間ほどで終了。当地域からの参加メンバーは全部で45名とのことで、お世話になっているI副支部長やF地区部長なども同行メンバーであることがわかりました。
会場に入ろうとすると、S本部長から、本部長がお連れしたKさんを帰りに送ってくれませんか?とのこと。KさんはW地区の75歳の壮年。快諾しKさんに挨拶。
会合終了後、Kさん宅まで同行しましたが、車中でのKさんの話に感動!本日の大きな功徳であったと思われてなりません。
Kさんが獲得した唱題(題目)の功徳
御本尊様の前で何時間あげたというものではなく、天界の境涯でも題目、痛い思いをしても題目、何があっても題目を意識しての日々。組織でも家庭でも、何があってもお題目。
なので、病気であった方が、悩みがあった方が、何も無いよりはるかに良い。
題目を意識しなくなると、寂しく不安になる。題目を意識しての日々は、御本尊様に感謝し池田先生に感謝できるので、生きていること自体が最高の幸せだと実感できる。池田先生のおっしゃる、生も歓喜・死も歓喜とはこういうことか。
そして、このような境涯が得られたことが、最大の功徳だと言われました。
Kさんがお題目を強く意識するようになったのには、きっかけがありました。
地域の会館の受付に座る任務のメインは男子部の牙城会ですが、壮年部や婦人部もこの任務に就くことがあります。
私の良く知るW副本部長がこの任務に就いていた時、傍らにKさんもいらっしゃったようです。
そこへ、これも私がお世話になっているK副総県長がやって来て、W副本部長に聞いたそうです。
「今、仏界は出ていますか?」
その後、K副総県長から種々話があったようですが、
「仏界以外の九界は罰(ばち)の境涯です」
という話があり、Kさんはこれにいたく感動。以降、Kさんの題目人生が開幕したようです。
青森の地から、ここ我らの地域に転居されて、壮年部の戦いを開始されたのが33歳の時。已来、75歳に至るまでのKさんの人生が獲得した最大の功徳。それが、唱題の功徳であったということでありましょう。
煩悩即菩提・生死即涅槃 故に凡夫即仏すなわち一生成仏の信心
現実の人生の途上でめまぐるしく展開される地獄界から仏界までの十界の境涯。この十界論の説かれる十種類の境涯は、一生成仏を目指す信心の大いなる指標となるものです。この指標に対して、抽象論を離れ、功徳と罰というインパクトのある言葉を用いて当てはめられたK副総県長の慧眼に敬意を表するものです。
最勝の経典・法華経に説かれるところの我ら凡夫の悩み・苦しみと成仏の境涯については、以下の仏法用語が良く用いられるところです。
- 九界即仏界
- 仏界即九界
- 凡夫即極
- 凡夫即仏
- 即身成仏
- 一生成仏
- 煩悩即菩提
- 生死即涅槃
「即(そく)」とは、そのままの身でということですが、「=:イコール」ということではけしてなく、九界すべてに具わる「仏界」を信心によって開き顕していくことを指します。すなわち、「万人成仏」の可能性を説ききった故に、法華経は最勝の経典であるということです。そしてその根本は、とにかく「題目」なのであります。
用語中の語意を端的に申せば、「凡夫」とは普通の人間の身の上、「煩悩」とは貪・瞋・癡の三毒すなわち、むさぼり・怒り・迷妄の苦悩、「生死(しょうじ)」とは生命が生死を繰り返す中での煩悩による苦悩を指しています。
日蓮大聖人は御義口伝で、「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり(御書710ページ)」と仰せです。
凡夫の身の上で、いかに煩悩を克服して仏果と遂げていくのか。「煩悩の薪を焼いて」いく作業こそ、南無妙法蓮華経のお題目を根本とする広宣流布の信心の活動に他なりません。
この信心の活動の途上における九界の諸相を『罰(ばち)』と捉える慧眼に感服いたします。
相対的幸福は一時の快楽の追求であり、天界の実現をもって人生の目的とする儚い幸福観です。相対的幸福については、永続しない一時的なものとの説明がなされます。しかし、上記の発想からすれば、相対的幸福の実現もまた、『罰(ばち)』といえると考えます。
苦しい時も題目・うれしい時も題目、という指導の真意はここにあるのではないでしょうか。