功徳と体験談

願いが叶う祈り方とは?お題目を「深く信心を発して」唱える効果と功徳の凄さを解説!

2022年2月度の座談会拝読御書「一生成仏抄」では、「唱題こそ生命を錬磨する直道」であり、「持続の信心こそ勝利の要諦」という事を学びました。

しかしながら、同じお題目を唱えて祈っても、人によって。その結果や功徳に違いがあるように感じるのは筆者ばかりでしょうか。同じく1時間・2時間とお題目を唱えた結果、歓喜する人もいれば、それでも半信半疑の人もたまにいたりします・・。

筆者の体験による実感では、ご本尊様に向かう、その時の心の姿勢次第で唱題後の心境に大きな違いがあるように思います。そして、その違いが功徳の現れ方にも影響しているように感じる次第です。では、生命を錬磨する唱題、勝利の要諦となる唱題とは、具体的にいかなるものなのか?この件について、調査・考察してみましたので、よろしければ御覧下さい。

願いが叶う祈り方とは?「深く信心を発して」の深い信心とは何かが気になる!

2022年2月度の座談会拝読御書「一生成仏抄」参照します。

深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。(御書新版317ページ・御書全集384ページより引用)

衆生の迷っている生命を「唱題行」で磨くことで、「悟った仏の生命」に変えていける、と仰せです。但し、「深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし」とされています。肝心なことは、「深く信心をおこす事」と明記されているのです。

では、「深い信心」とはどういう信心の事を言うのでしょうか?深い信心で唱えた題目によって、あきらかに功徳が実感できる結果を出していきたい。そんな思いから、一生成仏抄を再度拝読しつつ、「深く信心を発して」の意味を考察してみました。

願いが叶う祈り方とは?お題目を「深く信心を発して」唱える効果と功徳の凄さを解説!

仏法の説明によれば、現在の苦しみは、過去に犯した「行い(業:ごう)」の報いが結果として、現在の苦しみの結果をもたらしていると説いています。業と言っても、善悪にわたりますので、良い宿業は良い結果となります。原因があるから結果がもたらされるという「因縁思想」です。

「行い(業:ごう)」について掘り下げると、それは「身・口・意」の3つ(三業)となります。簡単に言えば、「身とは、行い・やること・振る舞い」、「口とは、発する言葉・言うこと」、「意とは、思うこと・考えること」です。生きていく上での有形・無形の全ての働きと言えるでしょう。この身口意の三業の全てが、原因となりその報いが結果となって現れるということです。

この原理原則を自身の唱題行にあてはめてみると、端座してご本尊に向かい(身)、お題目を唱える(口)までは良いのですが、この時、心の中・意識・考え(意)は、どうなっているかが問題です。

日蓮大聖人は、この「意」について「深く信心を起こして」と仰せになっています。深い悩みをかかえてご本尊様に向かうことになれば、それは真剣な「願い」で向かう事となるでしょう。また、その願いは人様々です。しかし、大聖人は、次のように仰せです。

末法に入って、今、日蓮が唱うるところの題目は、前代に異なり、自行・化他に亘って南無妙法蓮華経なり(新版御書全集 1387ページより引用)。

「自行・化他」とは、自身が実践すると「共に」他の人にも勧めていくということです。つまり、自身の願いと共に、常に他の人の幸福を願っていく姿勢がないといけない、ということです。

しかし、「他の人の幸福を願っていく姿勢」といっても、いろいろな立場の人がいるわけで、それは、そう簡単には出来ないことではないでしょうか。仮に、本人が友人の幸福を祈っていますと言ったとしても、それが「意業」として「因」に刻まれるだけのものであるかどうかはわかりません。

そこで、「折伏」です。「仏法対話」です。「勇気」です。友人・知人に「妙法」の素晴らしさと功徳を解き、その対話の実践の最中、唱題の時に、その友の幸福を祈るのです。「妙法の受持」は至極の大善です。至極の大善を祈ることは「大善至極の意業」です。

「深く信心を発して」と仰せの「深い信心」とは、仏法流布の実践の中でこそ成り立つものであるということです。そして、その実践の継続と諦めない心さえあれば、「日夜朝暮に又懈らず」、唱題行は継続していくのではないでしょうか。

こういったお題目を唱える効果、そして功徳、さらにはその凄さには、筆舌に尽くしがたいものがあることは確かです。

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