南無妙法蓮華経の功徳とは、悪を滅し善を生ずる仏界の生命を顕していける功徳です。また、自身の仏界を確信していけるこの功徳は最高無上であると確信いたします。では、その功徳を得る南無妙法蓮華経の唱え方とその意味はいかなるものなのでしょうか。
南無妙法蓮華経の功徳とは、南無妙法蓮華経と唱えることによって得られる功徳のことです。功徳とは何かについて、以下『悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり』とは実に明快なお言葉かと思います。
『功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり(御義口伝762頁より引用)』
南無妙法蓮華経はこれを唱えることによって功徳があり、その功徳とは、悪を滅して善を生じていくということなのです。
目次
南無妙法蓮華経の唱題行は生命を磨き仏界を顕す作業
日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経と唱へることについて次のように仰せです。
『譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり(御書全集384頁・一生成仏抄より引用)』
迷いの命、汚れた命もただ、南無妙法蓮華経と唱へたてまつることによって磨き上げられる、すなわち、仏界の生命を顕していけると仰せになっています。
南無妙法蓮華経と唱えるのは、くもった鏡を磨き上げる作業であり、これによって本来、自身に具わっているの仏界の生命の輝きが蘇るのです。但し、私たち凡夫の生命は放っておけばすぐに曇ってしまいます。そこで、日々、日夜朝暮に怠ることなく南無妙法蓮華経と唱えるという継続した磨く作業が肝心になって参ります。そしてこのことこそ、南無妙法蓮華経の唱え方の要諦(肝心な点・大事な点)なのです。
南無妙法蓮華経の唱題行は仏界の生命を信じることが肝心
仏界の生命とはなんでしょう。それは、尽きることのない「生命力」と「福徳」に満ちた絶対的な幸福境涯のことを指しています。そして、この仏界の生命は全ての人に厳然と具わっているのです。
そして、このことを信じて唱えるのが南無妙法蓮華経のお題目であり、その結果得られる功徳が仏の境涯と言えるのです。
何もわからずとも、御本尊に向かい南無妙法蓮華経のお題目を唱えることには大きな功徳があります。しかし、これを継続していくには、自身の中に仏界が実在すると信じていく心(信心)が欠かせません。実は、その助けになるのが善智識と言われる同志の存在です。
ともあれ、自身の中に実在する仏界の生命を信じる、ということは、現実の様々な問題も自分自身で打開していけのだという確信に至って、挑戦の姿を示していけるということでもあります。
日蓮大聖人の仏法は『ご信心によるべく候』といわれるように、他力本願ではないのです。おすがりの信仰とは全く逆なのです。
南無妙法蓮華経は、題目であると共に、「妙法の当体」です。妙法の当体とは、全宇宙を貫く根本法則であるということです。故に、南無妙法蓮華経と唱えて祈っていく行為は、その法の下、自力本願で(随自意:みずからに従って)現実に立ち向かっていくことにほかなりません。
以上、南無妙法蓮華経の功徳とは、仏界の実在を信じてお題目を唱えた結果として得られる功徳である、ということが言えるのです。
なお、、南無妙法蓮華経と唱える時に肝心なことは、日蓮大聖人が「深く信心を発して(おこして)」と仰せのように、自身に具わる仏界の生命の実在を信じきっていくことが重要なのです。
以降、これまで申したことを今一歩深く踏み込んで述べています。
南無妙法蓮華経の意味について
ここでは、「南無妙法蓮華経の意味」に特化して述べて参ります。
一般的に南無妙法蓮華経の意味については、
『「南無」はサンスクリット語の漢語への音写語で「私は帰依します」という意味で、「妙法蓮華経」は、鳩摩羅什(くまらじゅう)翻訳の法華経の正式名称。つまり「南無妙法蓮華経」とは、「法華経の教えに帰依をする」という意味になる』 ということになっています。
しかし、「南無妙法蓮華経」の本来の意味は、単に、経典の名称に「南無」を冠したものではけしてなく、「根源の法」そのものの名称であるということが肝心です。
以下に、南無妙法蓮華経の意味に関する一般論と教義と見解に関するサイトをご紹介しておきます。
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経の表層的な一般論が述べられているサイトです。
南無妙法蓮華経:教義・理念
「法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊に南無し、報恩感謝申し上げます」とは、創価学会版勤行要典の御観念文です。創価学会の御本尊の当体とは、あくまでも「法」であり、その法とは「宇宙と生命を貫く永遠にして普遍である根源の法」、すなわち、「南無妙法蓮華経」であるということです。
南無妙法蓮華経とはなんぞや
「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)とはなんぞや。一説には仏の名前といい(正確には生命に宿る仏性の名前)ありがとうという感謝の意味もあるという・・」から始まる「南無妙法蓮華経」の意味することへの考察です。創価学会員として根本尊敬の対象である御本尊即南無妙法蓮華経について、積年の研鑽の成果を一文にまとめられています。
以降、「根源の法そのものの名称」としての「南無妙法蓮華経の意味」を、いくつかの側面から掘り下げて参ります。
根源の法を覚知した釈尊と法華経
釈尊は、民衆一人一人の様々な「苦悩」を我が苦悩と捉えて、その根本的な解決策を探求していきました。そして釈尊は、数々の修行等遍歴の結果ついに、釈尊自身の生命の中に「宇宙と生命を貫く永遠にして普遍である根源の法」が実在することを覚知しました。それ故に仏陀(ぶっだ)と呼ばれるに至りました。
根源の法を覚知した釈尊は、縦横無尽の智慧と慈悲の行動の下、民衆に様々な教えを説き示していきました。後年、釈尊の様々な教えは種々の経典としてまとめられていきましたが、その中でも、根源の法(仏陀の覚り)の真実を伝えているのが「法華経」です。
南無妙法蓮華経は日蓮大聖人の仏の御生命
しかしながら、法華経には、「宇宙と生命を貫く根源の法」の存在は示しているものの、その名称と具体的な実態を明らかにはしていませんでした。
末法(まっぽう:釈尊滅後2千年以降、釈尊の教えが功力を失う時)に至って出現された日蓮大聖人は、その法華経の示す根源の法が大聖人御自身の生命にも具(そな)わっていることを覚知され、その根源の法こそ「南無妙法蓮華経」あると明かされるに至りました。
日蓮大聖人も釈尊も共に、根源の法の実在を御自身の生命の中に覚知されたということは、それが(南無妙法蓮華経が)万人の生命にもそなわっているということは自明の理であります。
法華経の正式名称は「妙法蓮華経」であり、これに「南無」を冠すると「南無妙法蓮華経」となりますが、南無妙法蓮華経とは、そのように経典の名称に南無を冠したものではけしてなく、「宇宙と生命を貫く根源の法」そのものの名称であるということです。
日蓮大聖人が根源の法を南無妙法蓮華経と覚知されたことによって、自身の生命の本当の姿を知らないままに悩み・迷い・苦悩する人々を根本的に救済して、もって、揺るぎない絶対的幸福境涯を開き、築きゆく道が、この現実世界に開かれたのです。
それ故に、日蓮大聖人は、苦悩渦巻く混乱の時代(末法)の御本仏として尊敬崇拝されています。このことから、南無妙法蓮華経は、根源の法を体現された「日蓮大聖人の仏の御生命」そのものであるといえるのです。
南無妙法蓮華経の名称が意味する深い意義
南無妙法蓮華経の名称の中の「妙法蓮華経」とは、法華経の詳細な呼称です。この法華経で示される「根源の法」は、実に理解し難いものなので「妙法(みょうほう)」と呼ばれます。
しかしながら、妙法の次にくる「蓮華(れんげ)」こそ、理解し難い妙法の特質を理解していくための譬えとなっています。
蓮華とは、植物の「蓮華(ハス)」です。蓮華(ハス)は、泥沼に生育しますが、その泥に染まることなく、清らかで香り高い花を咲かせます。そのありようは、妙法を信じて信仰を実践していく人が、濁世末法の苦悩渦巻く現実世界に生きていながら、清らかな心と行動をたもって、人々を教え導く姿が浮かび上がります。
さらに蓮華(ハス)は、他の植物の花と違い、花がつぼみの段階でも、その花びらの中に果実である蓮台ができあがっています。そして、花びらと実が同時に生長し、花が開いて実が現れた時も花びらと共にあります。
これは、花を「原因」とし実を「結果」とする植物の生態から見れば、原因である花と結果である実が倶(とも)にあって「同時」であると見ることができます(これを仏法用語で因果倶時<いんがぐじ>と言う)。
このことは、未だ仏の境涯(仏界の生命)が開き顕されていない凡夫の状態にあって仏の境涯は見えていなくとも、仏の生命は厳然とそなわっていることを示しています。さらには仏の境涯を得た後であっても、凡夫の生命境涯が失われていないと言う真理を示しています。
蓮華が妙法の特質を理解する譬えとなっているとは、以上のことです。
そして最後に「経」のところですが、これは、「妙法は永遠の真実を明かすもの」であるが故に、「経」として尊重され信仰の対象となる、ということです。
先の記述で、「南無妙法蓮華経とは、法華経の教えに帰依をする」という意味、という一般的な説明をご紹介しましたが、「南無」は「帰命」とも訳されます。「帰命」とは、身も心も帰依するということであり、全身全霊で教えを実践し体現するということです。観念的に「帰依します」というようなものではありません。
つまり、「南無妙法蓮華経」は、一切の衆生を救済せんとする、仏の慈悲と智慧の生き方が結晶した、仏の心そのものなのです。
以降、「南無妙法蓮華経」が、「仏の一切衆生救済の誓願の心そのもの」であるという観点から、万人成仏(凡夫成仏)にこそ、『「南無妙法蓮華経」の存在する意味がある』という側面を述べて参ります。
南無妙法蓮華経は成仏の根本法である
仏の真実とは何か。それは、「宇宙と生命を貫く根源の法」を我が身に体現して、あらゆる苦難を打ち破りつつ、なにものにも揺るがない「絶対的幸福境涯」を胸中に確立した「人(ひと)」のことに他なりません。この仏(人)が覚知した「根源の法」である南無妙法蓮華経こそ、成仏の根本法なのです。
南無妙法蓮華経は万人にそなわる永遠の法である
仏は、「宇宙と生命を貫く根源の法」が自身の生命に内在していることに目覚めました。それと共に、万人の生命にも、それが本来そなわっていることを覚りました。そしてさらに、「宇宙と生命を貫く根源の法」は生死を超える実在であって、決してなくならない存在であることを覚知しました。
要するに、南無妙法蓮華経は万人にそなわる普遍の法であって、過去世・現在世・未来世(三世)を貫く永遠の法なのです。
妙法は宇宙の根本法ですが、「三世十方の諸仏(仏法用語)」といわれるように、空間的に無限であるだけでなく、時間的にも無限の次元に存在する実在であるということです。
凡夫も本来は「妙法」そのものの当体である
凡夫(ぼんぷ)とは普通の人のことです。その凡夫ひとり人ひとりの生命にも、仏界(仏の生命)は厳然(げんぜん)とそなわっています。このことはつまり、本来、私たち普通のひとりひとりも、「南無妙法蓮華経」の当体そのものなのです。
しかしながら私たち凡夫には、その生命内在の真実を自覚できません。故に、内なる根源の法「南無妙法蓮華経」の力用を発揮させることができないのです。この、真実を疑って迷っている状態を「凡夫」といい、真実を「覚っている」状態を「仏」といいます。
では、どうすれば凡夫が真実を覚ることができるのか。
それは、南無妙法蓮華経を「信じて実践」する時にこそ、妙法の力とはたらきが現れるのです。
南無妙法蓮華経の唱え方はどうあるべきか
ここでは、自力本願で唱える「南無妙法蓮華経の唱え方」について、実践に即して述べて参ります。
南無妙法蓮華経のお題目は、これを唱えることを、日蓮大聖人が史上最も普及されました。
その南無妙法蓮華経の読み方(唱え方)は、【なんみょうほうれんげきょう】となります。
この南無妙法蓮華経を「信じて実践」し、妙法の力と働きを現していくために、日蓮大聖人は「曼荼羅本尊(まんだらほんぞん)」を顕されました。
南無妙法蓮華経は大聖人によって曼荼羅に顕し修行の本尊とされた
大聖人は御自身にそなわる仏界の生命を一幅(いっぷく)の曼荼羅(まんだら)として顕されました。そして、凡夫の私たちが、大聖人と同じく南無妙法蓮華経をわが身に体現して成仏する、修行のための本尊とされたのです。
「この御本尊は、まったく別の所に求めてはならない。ただ、私たちが法華経を持って、南無妙法蓮華経と唱える胸中にいらっしゃるのである(日如御前御返事 御書1,244ページの通解)」と大聖人は仰せです。
曼荼羅の御本尊に顕された「宇宙と生命を貫く根源の法」、そして、仏の生命である南無妙法蓮華経を拝しつつ、「それが自身の生命にも厳然とそなわっているのだと信じ受け止めていく」ことが最も肝心です。これによって初めて、自身の内なる妙法が開き顕されて仏の境地を得ることができるのです。
日蓮大聖人は「歓喜(かんき)」について、「初めて自身の心が本来、仏であると知ることを大歓喜というのである。南無妙法蓮華経とは、歓喜の中の大歓喜である(御義口伝 御書P788の通解)」と仰せです。
自身は本来、仏であった。南無妙法蓮華経そのものであったと知って、その無量の福徳をわが身に開き顕していける以上に「人生の喜び」はありません。
どこまでもお題目(南無妙法蓮華経の唱題行)をもって、妙法を根本に、あらゆる困難を勝ち越え乗り越えていく時、永遠に何ものにも壊されない幸福の軌道を進むことができるのです。
南無妙法蓮華経の唱え方の真実は以上です。これによって、この一生を大歓喜で飾っていくことができるのです。