創価学会本部を訪問した際、副会長クラスの幹部の方を中心とする懇談の場で、ある婦人の質問がありました。
病の克服を願って、一日中、それこそ「仕事のように」南無妙法蓮華経のお題目を唱え続けているご婦人がおり、その方を激励しているが、ぜんぜん良くならないと言っている。どうしたら良いか?という質問でした。
日蓮大聖人は次ぎのように仰せです。
「其の上は私に計り申すに及ばず候 叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く(御書:日厳尼御前御返事1,262ページより)」
通解:「その上は自分勝手に御本尊の功徳を推し量ってはなりません。あなたの願いが叶うか叶わないかは、御信心によるのです」
お題目を唱えていても願いが叶わないのは、本人の御本尊に対する「信心」が無いからだと仰せです。
叶う・叶わないは信心による その信心とはいったい何か
改めて、「信心」という心・思いとはいったい何でしょう。大聖人は次のように仰せです。
「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候(御書:諸法実相抄1,361ページより)」
通解:行学の二道に励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば、仏法はない。自分も行い、人をも教え導いていきなさい。行学は信心から起こるのです。
行・学の具体的な実践を促す(うながす)ような「信心」でなくてはならないと仰せです。
行とは、勤行(読経・唱題)の「自行(じぎょう)」と弘教(ぐきょう)の「
化他行(けたぎょう)」の2つのことです。弘教とは、自分自身だけの変革ではなく、自他共の幸福を目指して、人々に仏法を語っていくことをいいます。
学とは、教学を学んでいくことであり、「御書(ごしょ)」の拝読を根本に、仏法の正しい法理を学ぶことです。
この行と学については、「どこまで実践すれば良い」ということではなく、仏法を深めるために、その努力をすることが肝心で、その原動力が信心であるということです。
広宣流布の信心でお題目の祈り・願いは絶対に叶っていく
特に「弘教」の実践は、末法という現代にあって、仏法の実践に不可欠なものです。
「弘教」を願ってのお題目(唱題)の実践こそが、自身の内なる「仏の生命」を呼び出だし、自他共に、苦境を変革してことになります。
自身も他人も共に幸福に!このことを祈りの根本にすることが、「自分の願い」を叶える一番の近道であるということなのです。
池田SGI会長指導選集の『幸福と平和を創る智慧(大百蓮華・2016年5月号の97ページ上段)』」に、池田名誉会長の次のことばが紹介されています。
「御書に『叶い叶わぬは御信心により候べし(御書1,262ページ)』と仰せです。どのような信心に立てば祈りは叶うのか。それは、自分のことだけでなく、他者や社会のために祈り、行動する『広宣流布の信心』です。私自身、祈ったことは一つ一つ叶えてきました。それは、『広宣流布は必ずできる!いな、必ず広宣流布を成し遂げてみせる!』~この誓願をひたすら貫いてきたからです」
あくまでも、他人の幸福を祈る心から本当の信心が始まります。
その信心の下、南無妙法蓮華経のお題目の祈り・願いは絶対に叶っていくということなのです。