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浜四津敏子氏の死因はコロナ?発表が遅かった理由は?逝去がいつかも確認!

浜四津敏子氏(元公明党代表代行)がご逝去されていた、との突然の報道が、2023年2月16日にありました。

NHKなどの報道によると、「3年前に75歳で亡くなっていたと党が発表しました」とのこと。

10年以上も前に政界を引退されている方ですが、ある意味、知る人ぞ知る「超有名人」です。

「2020年11月」のご逝去、だったとのことですが、この時期やはり「コロナが死因?」。それにしても公表(発表)が遅すぎなんでは?

ご逝去の日付なども含め、気になったので調査してみました。

最後までご覧いただけると嬉しいです。

浜四津敏子氏(元公明党代表代行)が逝去されてた?2020年の死亡を公明党が今公表!

公明党は16日、浜四津敏子元代表代行が20年11月に死去していたと発表した。75歳だった。

引用先:FNN

 

浜四津敏子氏と言えば、公明党支持者(支援団体の創価学会)のメンバーであれば知らぬ人がいないであろう有名人でいらっしゃいました。

2010年9月に政界を引退されて早や13年。未だに浜四津敏子氏の存在は記憶に新しいものと思います(あくまでも筆者の意見)。

その経歴も感服致しますが、今よりも遥かに「男社会(特に政界)」であった時代に、しかも、政権が集合離散を繰り返す中、「公明代表」「公明党代表代行」を務められ、周囲も絶賛する存在でありました。

社会党の土井たか子氏もインパクトがありましたが、実質的により多くの人心を掴み引っ張っていった「浜四津敏子氏」の存在は別格ではなかったかと。

浜四津敏子氏逝去の報を受けたコメントでは。

めちゃくちゃ前だけど、この人が現役で選挙運動をしていた頃にたまたま街頭演説をしているところに通りかかって、つい話を聞いてしまった記憶がある。
なんていうか話が本当にうまくて力があって、それで最後に手袋をとって握手までしてくれた。
当時は政治に全然詳しくなくて公明党のことも知らなかったのだけど、「この人すごいな」と素直に思ったのを強烈に覚えている。
ご冥福をお祈りします。

身近で拝見したことがありますが、お肌が綺麗で血色も良く、本当に政治家?と思うような透明感がありました。ある程度の年齢になると、人柄や生き方がお顔にも出るのでしょうね。私利私欲ではなく、数少ない信念を持った政治家のお一人でおられたのだと思います。お疲れ様でした。御冥福をお祈り致します。

公明党、創価学会関係者でもない方々が絶賛されているのには驚きましたが、改めて、浜四津敏子氏の存在の大きさを感じる次第です。

ところで、公明党が「20年11月に死去していたと発表」とのことですが、どうして公表がご逝去から2年3か月も経過してしまったんでしょう?

逝去報道のコメントでも。

政界から退いていたとはいえ亡くなった時点でかなり多くの人が知ったはずで、2年以上にわたり全く報道がなかったのは不思議。

といった意見もありますね。

公明党は16日、浜四津氏が20年11月に死去していたことを明らかにし、「これまで遺族の意向で発表を控えさせていただいていたが、このたび了解を得たのでお伝えさせていただいた」と発表した。

引用先:FNN

 

あくまでも「ご遺族の意向」で発表を控えていたんだそうです。そしてこのたび、了解を得ての公表、ということだそうです。

とは言うものの、「ご遺族の意向」でなぜ?という部分と、【死因】が何であったか気にはなるところです。

浜四津敏子氏の死因はコロナ?発表が遅かった理由は?逝去がいつかも確認!

浜四津敏子氏逝去の報道について詳しく確認し、亡くなった死因や「ご遺族の意向」で発表が遅くなった理由をもう少し追及したいかと。

まず、逝去された年月日についてー

 公明党元代表代行で、環境庁長官を務めた浜四津敏子(はまよつ・としこ)さんが二〇二〇年十一月二十九日に死去した。七十五歳。

引用先:TOKYO Web

 

  • ご逝去:2020年11月29日。
  • 享年:75歳。
  • 逝去公表:2023年2月16日。

浜四津敏子氏が「2020年11月29日」に亡くなった「死因」については、病なのか事故なのか?全く報道されていません。

ただ、「ご遺族の意向」を尊重して考えるならば、この時期、2020年4月から「コロナ禍」が本格的に猛威を奮いはじめ、11月ともなれば大変な時期でした。

仮に、ご逝去直後に公表していた場合、弔問が殺到してしまい、コロナの蔓延する社会に多大な迷惑(死にもかかわる問題)をかけていた可能性があります。

聡明なるご遺族は、この点を踏まえ、コロナが落ち着いて「マスク着用任意」となったこの時期に「公表にOK」を出されたのではないでしょうか。

そして、死因ですが、あくまでも想像なんですが「コロナ感染」という可能性も・・。

そうであった場合、弔問は「絶対不可」であったかと。

あくまでも筆者の想像ですが・・。

繰り返すようですが、対社会ということを考えると、2023年2月16日の公表(発表)は、浜四津さんらしく、最も理に叶っていたのではないでしょうか。

浜四津敏子氏(元公明党代表代行)が逝去されてた?追悼コメントが気になる!

浜四津敏子氏のご逝去の報に接しては、心より追悼の意を表したいと存じますが、ネット上の追悼コメントなども気になるところです。

追悼にあたり、その立派な御経歴を確認させて頂きます。

(浜四津敏子氏の政界での御経歴)

  1. 1992年の参議院選挙に東京選挙区から出馬し初当選。
  2. 羽田内閣では環境庁長官に就任
  3. 新進党の結成に伴う公明党の分党期に党の代表
  4. 公明党の再結成後には代表代行を歴任
  5. 不妊治療の保険適用を推進するなどの活躍
  6. 2010年9月に政界を引退

せっかくなので、以下に、過去の「はまよつ敏子HP 向日葵通信」より、今一歩深いご経歴をご紹介します。

昭和20年1月6日 台湾・台北(タイペイ)市に4人姉妹の末っ子として生まれる。
父は「赤ひげ先生」としたわれた人情派の歯科医。
終戦後、新宿区高田馬場に。

昭和35年3月

東京都新宿区立戸塚第2小学校をへて、西戸山中学校を卒業。
少女時代は『ナイチンゲール』『キュリー夫人』などの伝記に感動。
社会のために役立つ生き方を学んだ。

昭和38年3月東京都立戸山高校を卒業。当時は「60年安保」で社会が騒然としていた。
「人は何のために生きるのか」と真剣に模索し、人々の幸せのために生涯、生き抜くことを誓う。

昭和42年3月

慶應義塾大学法学部を卒業。
在学中は、渡部通子氏の遊説隊も経験した。
大学3年の時、司法試験受験を決意。1日12時間以上の猛勉強が始まった。

昭和44年3度目の挑戦で司法試験に合格。翌年、浜四津尚文氏と結婚。
6畳1間のアパートからのスタートだった。
昭和47年東京弁護士会に弁護士登録。二人の子どもも誕生し、妻・母・弁護士と一人3役をこなし奮闘。夫の留学にともなってアメリカに2年間在住。
帰国後は、子どもたちを保育園に預け、毎日が時間とのたたかい。多忙な中でも子どもと絵本を読み、ドーナッツやクッキーづくりをした楽しい思い出も。

昭和59年日本弁護士連合会「女性の権利に関する委員会」委員。

平成元年東京弁護士会「子どもの人権110番」を担当。

平成2年日本女性法律家協会副会長に(〜平成3年)。

平成4年7月参議院東京選挙区より出馬し初当選。

平成6年4月羽田内閣のもと環境庁長官をつとめる。(4月28日就任)

平成10年1月「公明」代表に。(「公明」結成、平成10年1月21月)

平成10年7月参議院東京選挙区より当選(2期目)。

平成10年11月7日「公明党」代表代行に就任。

平成11年9月2日党女性委員長に就任。

平成16年7月参議院比例区より当選(3期目)。

【著作】
著書に『いつもひまわり』(鳳書院)
『やっぱりひまわり』(同)。
共著で『21世紀日本のシステム』(蝸牛社)など。
【家庭】
家族は国際弁護士の夫と1男1女の4人家族。
東京都三鷹市在住。

※追悼コメントについては、漸次、追加して参りますのでお待ちください。

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