願いが叶う方法とは。
「星に願いを誰もがかける いつかは幸せ来ると・・」
古来から「願掛け(がんかけ)」といわれている「神・仏に願立てをすること・願をかけること」に他なりません。
世の中がいかに移り変わろうとも、未来永劫にわたり、追求されつづけるノウハウが「願いが叶う方法」です。
さて、「願いが叶う方法」の追求は、言い方を変えれば「幸福の追求」とも言えるでしょう。
しかし、本当の幸福(より質の高い・より次元の高い)ということを考えた時、【願いが叶う事イコール(=)幸福】とは必ずしも言い切れないのではないでしょうか。
とは言え、食べ物が無い!欲しい!今すぐお金が必要!欲しい!という窮状(きゅうじょう)に「幸福の追求」などという論理は通用しません。
しかし、「食べ物が無い」「今すぐお金が必要」という状況が満たされた時、人は、明らかに困った状況にいた自分のことを「きれいさっぱり忘れる」ものではないですか?
そして、同じようなことを繰り返して「この世を終わる」のではないでしょうか・・。
そんなんで良いのでしょうか?
やはり、本当の幸福(より質の高い・より次元の高い)の追求という上での「願いが叶う方法」を会得(えとく)することが重要ではないでしょうか。
ちなみに、最高至極の本当に幸福な境涯のことを「仏法」では「絶対的幸福」と表現しています。
「南無妙法蓮華経」と声に出す行為を「お題目」を唱える、あるいは「唱題」と言いますが「お題目」こそ、必ず願いが叶う唯一の方法です。
【絶対的幸福】という境涯に至る、絶対確実で即効性のある方法です。
この記事では、その理由について述べています。
目次
お題目とは何か?
28品(28章)からなる「法華経」という経典の正式名称は「妙法蓮華経」といいます。
「妙法蓮華経」とは法華経の「題目」ということになります。
そして、法華経の「題目」の頭に「南無」をつけた「南無妙法蓮華経」のことを通称「お題目」と言われています。
「南無」には、「恭順、信じて従う、帰依する」などの意味があります。
「南無妙法蓮華経」といえば「日蓮(にちれん)」が有名ですが、日蓮より遥か以前の中国・天台宗でも、既に「南無妙法蓮華経」と唱えていたと言われています。
以上のいわれからする「南無妙法蓮華経」ですが、これが、実際に唱え続けてみるかみないかで、えらい違いがあります。
百万遍、唱えたことのある者が「凄い」と言っていました。
一回唱えることを「一遍(いっぺん)と言います。百万遍、唱えたことのある者が「凄い」と言っています。
1万遍唱えるのに3時間かかります。百万遍とは、この忙しいご時世で大変な時間です。
しかし、唱え続けられたということも「脅威の事実」であって、尋常ではないものを感じます・・。
南無妙法蓮華経と唱えるお題目こそ必ず願いが叶う方法
【百万遍、唱えたことのある者が「凄い」と言っています】について。
やはり、唱え続ける事が出来た「脅威の事実」を考えないわけにはいきません。
その者(本人)は言っています。
「必ず願いは叶う」それは「願いが叶うまで、いつまでも唱え続けるからだ」と。
そして念願は叶っているようです。
ごもっともな話ですが、問題はやはり、そのような「心境にさせる・成れる」力が「お題目」にはあるようなのです。
南無妙法蓮華経のお題目が願いが叶う方法として絶対確実である理由
南無妙法蓮華経と唱える「お題目」は絶対確実に「願いが叶う方法」なのかどうか?
「人生の禍福は転々として予測できない」ことのたとえとして「塞翁が馬(さいおうがうま)」ということわざがあります。
⇒ 「塞翁が馬」ってどういう意味? 使い方や由来、例文も紹介
「禍福」とは災い(不幸)と幸福という意味です。災いに見舞われたことが幸福への引き金になったり、反対に、幸福な出来事が災いの種になったりすることです。
人生とは、はっきり言って、生まれてから死ぬまで、不幸と幸福は常に同居し、あり続けていくものです。
それを、「死」という最大の命題と共に、不幸については「見て見ないふり」をしている、というのが真実です。
しかし、南無妙法蓮華経と唱える「お題目」には、災いを福に転じる威力が具わっています。
▽引用
仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし、妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給う。経王御前には・わざはひも転じて幸となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき、「充満其願・如清涼池・現世安穏・後生善処」疑なからん(日蓮大聖人御書全集1,124ページより引用)
こういった意味合いから、「お題目」こそ、絶対確実に「願いが叶う方法」なのであると、先の百万遍となえたある者が言い切っておりました。
まとめ記事:願いが叶う方法!南無妙法蓮華経の「お題目」こそ 絶対確実に即効性のある強力な方法
願いが叶う方法として南無妙法蓮華経のお題目に即効性のある理由
願いの「叶う・叶わない」世の中のあり様に対して、仏法では、即効で祈りの叶う「時」というものがあると説いています。
それは、
まさに、正しい「仏法」が滅しようとしている時。そして、その「仏法の実践者」が死ぬか生きるかの状況の時。
であるそうです。
こういった事は、一般人(凡夫:ぼんぷ)にとって、縁のないことかもしれませんが、先の「百万遍唱えたある者」が言っていました。
営業部に嫌な人物がいた。何かと自分を人前で批判する。経理だった自分は、しばらく彼と縁遠かったが、ある酒席でいっしょになることになった。会場には既に「嫌な人物」が来ていた。トイレに入った。5分程だったが、必死に小声で「南無妙法蓮華経」と唱え続けた。覚悟を決めて酒席に着いた。酒がまわってきた頃。「嫌な人物」が営業先であったある出来事を話し、「反省している」と周りに言いまくって、自分が批判の対象になるような話は一切向けられる事無く終わった・・。
いわく、「南無妙法蓮華経のお題目には即効性のある」とのことでした。
願いが叶う・願いが叶わないー最も幸福な事とは【絶対的幸福】
「願いが叶う・願いが叶わない」と言っても、その願いの強さはどうか?
ダイエットを誓い、食べ物の摂取コントロールに挑戦するものの、食べ物の誘惑に負けて、実践行動は途絶える・・。
こういったよくある事に対して願いが弱い・強いとは言い切れませんが、「願いの強弱」が、その成就の関係があることは間違い無いでしょう。
仏法で言う「信心」とは、言い方を変えれば「信じて願う心」です。平たく言えば、「願いを叶えたい心」とも言えるでしょう。
▽引用
「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候(御書:諸法実相抄1,361ページより)」
通解:行学の二道に励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば、仏法はない。自分も行い、人をも教え導いていきなさい。行学は信心から起こるのです。
行・学の具体的な実践を促す(うながす)ような「信心」でなくてはならないと言われています。
上記の引用に関して、池田SGI会長指導選集の『幸福と平和を創る智慧(大百蓮華・2016年5月号の97ページ上段)』」に、池田名誉会長の次のことばが紹介されています。
「御書に『叶い叶わぬは御信心により候べし(御書1,262ページ)』と仰せです。どのような信心に立てば祈りは叶うのか。それは、自分のことだけでなく、他者や社会のために祈り、行動する『広宣流布の信心』です。私自身、祈ったことは一つ一つ叶えてきました。それは、『広宣流布は必ずできる!いな、必ず広宣流布を成し遂げてみせる!』~この誓願をひたすら貫いてきたからです」
あくまでも、他人の幸福を祈る心から本当の信心が始まる。その信心の下、南無妙法蓮華経のお題目の祈り・願いは絶対に叶っていくと言われています。
人生とは、その終わりに至るまで、不幸と幸福が常に同居し続るものとは、先に述べた真実ですが、要は、どんな不幸にも決して屈しない「自己の確立」こそ、「願いを叶える」終着点であるということです。
そのような「自己の確立」を仏法では「絶対的幸福」と言います。これに対して、不幸と幸福に翻弄(ほんろう)されることを「相対的幸福」と言います。
「絶対的幸福」を確立する、南無妙法蓮華経のお題目こそ、絶対確実に即効性のある強力な願いが叶う方法であるということです。