所感・随想

南無妙法蓮華経とは尊極の生命の名前|末法の仏道修行は仏界が凡夫に具わると信じ他者に説く

仏教では、世の中に「国法」と「世間法」と「仏法」があると説きます。

 

国宝とは秩序を保つ為に、国や地方公共団体が定めた各種の法律です。世間法とは、世の中・巷の評価や信用度などです。

例えば、不倫があったとして、国法では無罪でも世の評価は厳しく、えげつない商売で法の網を潜り抜けても、世の評価は悪と断じて赦しません。

これが世間法であるわけですが、時に風評が世論となって、無実の存在(人や事物)が糾弾されてしまうこともあるので恐ろしい存在でもあります。なので仏教では、「国法」は「世間法」に敵わない:国宝<世間法、としています。

 

その上で、仏教では、「仏法」はこの世の理(ことわり)の全てを司る「法」故に、当然、「世間法」に勝るとしています。

 

仏教ではさらに、「仏法」の本質は、「尊極の生命」であると説き、これが、あらゆる煩悩(ぼんのう)に惑い・左右される凡夫(あらゆる大衆・衆生)の生命に具わっていると説いています。

 

この尊極の生命のお名前こそ、「南無妙法蓮華経」です。南無妙法蓮華経こそ、仏法の本質の名称であるということです。

この事は実に真理ですが、「尊極の生命」は、これを現実に取り出だし、自身の現実の生活上に顕現できなければ意味はありません。では、その方法とは何でしょう?

 

それは、尊極の生命即、南無妙法蓮華経を信じ、声に出して唱えることから始まります。さらには、自身の幸福は世の安穏と平和なくして結局はありえないので、他者に尊極の生命の存在を説いていく行為が不可欠となります。

 

この実践行動、つまり、自他共に南無妙法蓮華経」を信じ、唱えていこうとすることが、末法唯一の仏道修行ということになります。

末法の真の仏教にとって根本尊敬の対象である「本尊」は、「南無妙法蓮華経」であり、これに違背することの全てが、「誹謗正法」つまり、「謗法」ということになります。

 

真の功徳とは、「悪を滅し、善を生ずる」ことによって顕現されることを知らなけれななりません。

以上。

 

以上のお話の根拠については、別途、示したいと思います。(筆者)

 

現時点のご参考▼

「世間は評判、国法は賞罰、仏法は勝負」