読経・唱題・祈り

法華経の行者の祈り について

法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず~、すなわち、法華経の行者の祈りは必ず叶う、ということについて述べて参ります。

法華経の行者とは、釈尊滅後の末法・悪世にあって、身命を賭して妙法(法華経の肝心)を世に弘めようとする人のことです。

法華経の行者とは、法華経(妙法蓮華経)の説法にあらわれる言葉で、その概要は、『法華経の説法によって、あらゆる衆生に成仏の道が開かれた。法華経では、この大恩に何としても報いようと、菩薩、二乗、人界、天界等のあらゆる衆生が法華経の行者を必ず守護すると誓いを立てる』というものです。

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法華経の行者が末法に弘めようとする妙法

法華経に説かれた「成仏の道の根源」こそ、私たちが信仰する妙法に他なりません。また、法華経に説かれる法華経の行者が末法に弘めようとする「法(ほう)」でもあります。

妙法は、あらゆる生命を貫く根本の法則であり、万人の成仏を実現する根源となる法です。また、妙法とは、即、南無妙法蓮華経のことです。

勤行の御観念文に「法華経の肝心 南無妙法蓮華経の御本尊に南無し~」とあるとおり、勤行(唱題・読経)では、「根源」の法である妙法を根本尊敬(本尊)の対象としています。

この御観念文について重要なことがあります。続く御祈念に「世界広宣流布大願成就と創価学会万代の興隆を御祈念します」の次に「自身の人間革命と宿命転換を祈り種々の願いが叶いますよう御祈念~」とあります。

法華経の行者の祈りのあり方は、広宣流布大願成就を第一義に願うところに自身の願いの成就も全て含まれて叶っていくということです。また、自身の祈りの本当の成就とは、広宣流布の戦いに勇気をもって打って出て、自身の人間革命と宿命転換を成し遂げていく中にあるということです。

これが、法華経の行者の祈りの本質であることを銘記したいと思います。

法華経の行者の祈りが必ず叶う理由

この根源の法(妙法)はあらゆる生命を貫く根本法則であるが故に、この法に南無することで自身にも内在する妙法の至極の境涯、「仏界(ぶっかい):仏の命」が湧源して参ります。

仏界の命が湧源するところ、あらゆる宇宙の働きが、その人を守護する方向に働くことはいうまでもありません。

法華経の会座で、法華経の行者を必ず守護すると誓う菩薩、二乗、人界、天界等のあらゆる衆生とはまさに、宇宙のあらゆる働きと言えましょう。

言うまでも無く、日蓮大聖人の御事跡は法華経の行者の振る舞いに他ならず、これに連なり世界広宣流布を目指す私たち創価学会員の一人一人も法華経の行者です。

師弟不二の戦いに純真に臨む私たちは間違いなく法華経の行者であり、その祈りは必ず叶っていく。日蓮大聖人は祈祷抄(きとうしょう)でそのように仰せです。

『大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず(御書:祈祷抄 1,351ページ18行目から1,352ページ1行目)』

関連記事:祈祷抄の講義 法華経の行者の祈りの~

法華経の行者の祈り 勇気の実践の人の祈りが叶う

法華経の行者の祈りは必ず叶う、とのことですが、自身が本当に法華経の行者としての「実践」をしているかどうか?

この点が、いのりの叶う・叶わないにとっては重要な問題です。

創価の庭の同志の皆さんの中には、どう見ても自分より歓喜して四六時中戦っているような方がいたりして、とても自分では及ばない・・と思えることがあるかもしれません。

「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず(御書:日厳尼御前御返事 1,262ページより)」

しかし、信心は見た目ではありません。

日興遺誡置文には、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」とあります。随力弘通(ずいりきぐつう)とは、その人その人の力に随って(したがって)ということです。人の真似をそのまま無理して行うことではありません。

では、どうすれば・・・。

ポイントとなるのは、「勇気」です。広宣流布の活動の様々な局面では、その人なり(その人・一人一人でしかありえないような)の様々な障害にぶつかることがあります。その時、勇気をもってお題目根本に挑戦することにあるのです。

「平和、慈悲といっても、仏法の正義を断じて貫こうという勇気から始まる。戸田先生は、『勇気に代わるものは勇気です。勇気をもって、正しいものは正しいと語っていくことが慈悲に通じる』と、よく言われていた。臆病を打ち破り、勇気をもって戦いを起こしてこそ、自身の人間革命がある(新・人間革命 勇気47より)」

法華経の行者の祈りは、あくまでも勇気ある実践にあることを、改めて銘記致しましょう。