11月18日 創価学会創立記念日 とその意義

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11月18日は、創価学会創立記念日です。1930年(昭和5年)の11月18日に、牧口常三郎初代会長の著書である『創価教育学体系』の第1巻が発刊されました。そして、この日をもって、師・牧口常三郎と弟子・戸田城外(当時の戸田先生のお名前)のたった二人からなる、「創価教育学会」の出発の日としました。これが現在の創価学会が創立された歴史的な日なのであります。

11月18日は、また、牧口初代会長の命日でもあります。軍国主義を賛美する暗い時代の中、牧口会長は、不屈の精神で信教の自由を貫き、不敬罪の罪で逮捕投獄されます。そして、1944年(昭和19年)の11月18日、獄中で殉教の日を迎えました。御歳・73歳でした。

11月18日 創価学会創立記念日 の意義

今年(2016年)もまた、創価学会創立記念日を記念する勤行会が学会本部で行われました。

『2016年11月18日、創価学会創立86周年を記念する勤行会が、初代会長・牧口常三郎先生の殉教72年に当たる祥月命日の追善法要の意義を込めて、東京・新宿区の総本部で行われた。池田大作先生は、創価学会恩師記念会館で厳粛に勤行・唱題し、先師の偉大な生涯をしのんだ。(中略)これには池田先生がメッセージを贈り、全国、全世界の創価家族と「創立86周年」の大勝利の朝を迎えたことを喜ぶとともに、とりわけ婦人部の奮闘を心からたたえた(聖教新聞より引用)』

池田先生のメッセージにおける「大勝利の朝」とは、不敗・常勝の広宣流布の戦いの勝利の朝に他なりません。「創価学会創立記念日」を節目に、いや増して広布拡大の連続勝利を決意すること。そして、師匠への広布誓願の誓いを新たにしゆくこと。その大いなる節目となる日こそ、創価学会の創立記念日である11月18日に他なりません。

11月18日 創価教育学体系 発刊の経緯

牧口初代会長は、1871年(明治4年)6月6日、現在の新潟県柏崎市に生まれました。北海道で教員となり、以来、教育者の道を歩まれました。

1928年(昭和3年)、57歳の時、【日蓮大聖人の仏法との出会い】という大きな転機が訪れます。日蓮大聖人の仏法には、牧口先生が長年求め続けて来た、全民衆の幸福を目指す人間主義の哲学が厳然としていたのです。これを機に、牧口先生は、ご自身がこれまでに書きためてきた教育理論を、今こそ体系化しようと決意しました。

牧口先生が自らの決意を真っ先に語ったのは、愛弟子である戸田先生(後の戸田城聖第二代会長)に対してでした。1929年(昭和4年)2月のある夜、思いを聞かされた弟子は、師の教育学説を自分が出版しようと決意します。

「先生の教育学は何が目的ですか(戸田先生)」「価値を創造することだ(牧口先生)」「では先生、創価教育と決めましょう(戸田先生)」。こうして、牧口先生の教育学説は「創価教育学」と名づけられました。そして、弟子・戸田先生は、牧口先生が書きためた膨大なメモを整理する作業と、出版資金の捻出を、一手に引き受けたのです。

翌年に発刊された『創価教育学体系』第1巻の奥付には「著作者・牧口常三郎 発行兼印刷者・戸田城外(戸田先生の当時のお名前) 発行所 創価教育学会」とあります。

11月18日 牧口初代会長の殉教の日について

11月18日は、牧口初代会長の命日でもあります。

戦争に突き進む日本の軍部政府は、昭和10年代後半から、本格的に思想の統制に乗り出し、やがて、国家神道を全国民に強制するという暴挙に出ます。牧口会長は、これに真っ向から抵抗し、各地で活発に座談会を開催。軍国思想を堂々と批判して、仏法の正義を説き続けました。迫害は必然・必至でした。特高警察は、1943年(昭和18年)7月6日、牧口会長・戸田城聖理事長をはじめとする創価教育学会の幹部21人を治安維持法違反・不敬罪の容疑で逮捕、投獄したのです。

真冬に暖房もない極寒の独房、栄養失調になるほどのわずかな食事、連日の厳しい取調べ・・・それでも牧口会長は、信念を曲げることなく、不屈の闘争を貫きます。しかし、牢獄での過酷な日々は、70歳を超えていた牧口会長の体を確実にむしばんでいきました。

1944年(昭和19年)10月13日付で獄中から家族にあてた手紙には、「三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」との、信仰への確信にあふれた言葉があり、これが牧口会長の絶筆となりました。そして一月後の11月18日、牧口会長は獄中で亡くなります。73歳でした。

多くの宗教者や思想家が、迫害に屈して軍国主義を賛美した暗い時代にあって、牧口会長が貫いた【不屈の精神】は、今なお、不滅の光を放っています。

創価学会の歴代会長 師弟不二の原点

学会創立記念日である11月18日。それは、師匠への誓いを新たにする日です。

第三代池田会長は第二代戸田会長を師とされ、第二代戸田会長は、初代牧口会長を師とされて【広宣流布の大願】を継承されました。その原点ともなろうエピソードを、小説「新・人間革命第2巻 勇舞の章」から、以下、引用致します。

▼引用ここから▼

伸一は、牧口と接することはなかったが、戸田城聖から、その生き方、思想、哲学、信念を徹底して教えられてきた。彼の心のなかには、まみえることのなかった先師の姿が、鮮明に焼きつけられていたといってよい。

戸田は生前、牧口の死を聞いた折のことを語り始めると、目は赤く燃え、声は憤怒に震えるのであった。

「牧口先生は、昭和十九年(一九四四年)十一月十八日、冬が間近に迫った牢獄のなかで亡くなった。栄養失調と老衰のためだ。私たちは、その前年の秋に警視庁で別れを告げたきり、互いに独房生活で、会うことはできなかった。私は、毎日、毎日、祈っていた"先生は高齢であられる。どうか罪は私一身に集まり、先生は一日も早く帰られますように"と。しかし、先生は亡くなられた。私がそれを聞いたのは、先生の逝去から五十日余り過ぎた翌年の一月八日、予審判事の取り調べの時だった。『牧口は死んだよ』その一言に、私の胸は引き裂かれた。独房に帰って、私は泣きに泣いた。コンクリートの壁に爪を立て、頭を打ちつけて・・・。先生は、泰然自若として、殉教の生涯を終えられたことは間違いない。しかし、先生は殺されたのだ!軍部政府に、国家神道に、そして、軍部政府に保身のために迎合した輩によって・・・。先生がいかなる罪を犯したというのか!『信教の自由』を貫いたがゆえに、殺されたのだ。あとで聞いたことだが、先生の遺体は、親戚のところで働く男性に背負われて獄門を出た。戦時中のことでもあり、たった一台の車さえも調達することができなかった。奥様は、その遺体を自宅で寂しく迎えた。葬儀に参列した人も、指折り数えられるほど少なかった。皆、世間を、官憲の目を恐れていたからであろう。民衆の幸福のために立たれた大教育者、大学者、大思想家にして大仏法者であった先生に、日本は獄死をもって報いたのだ!」

そして、いつも、最後に、阿修羅のごとく、言うのであった。「私は必ず、先生の敵を討つ!今度こそ、負けはしないぞ。先生の遺志である広宣流布を断じてするのだ。永遠に平和な世の中をつくるのだ。そして、牧口先生の偉大さを世界に証明していくのだ。伸一、それが弟子の戦いじゃないか!」

怒りに体を震わせて語る戸田の姿を、伸一は一人、生命に刻みつけた。

戸田は、師の牧口の命を奪った"権力の魔性″に対する怒りと闘争を忘れなかった。邪悪への怒りを忘れて正義はない。また、悪との戦いなき正義は、結局は悪を温存する、偽善の正義に過ぎない。

山本伸一は、牧口常三郎の第十七回忌法要の席にあって、戸田がいかなる思いで、牧口の法要に臨んできたかをしのぶのであった。

▲引用ここまで▲

■ ⇒ 創価学会の記念日 一覧表(各月別・広宣流布の歴史)

以上です。

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