和合僧をどこまでも大切に! 五逆罪と破和合僧と怨嫉

同じ題目を唱えても、法華経の心に背くか否かで、結果は大きく違ってしまう。「法華経の心に背く」――。すなわち、「法が中心」ではなく「自分が中心」になって、「権力の魔性」にとらわれて、堕ちていったのが日顕宗である。

   

和合僧をどこまでも大切に!

 

仏法で説かれる「五逆罪」のなかで、もっとも重い罪は何か。それは「破和合僧」である。すなわち、父母を殺したり、阿羅漢(小乗の悟りを得た聖者)を殺すことよりも、仏の身から血を出だすことよりも、さらに重い罪が「和合僧を破ること」なのである。

仏勅の広宣流布の団体である創価学会の組織を破り、団結を破ることが、どれほど重い罪になることか。極善に反対すれば極悪になる。末路は、あまりにも悲惨である。「団結せよ」と厳しく言うのは、そのためである。

仏典に、こんな説話がある。(『ブッダ 悪魔との対話』中村元訳、岩波文庫。)ある時、一人の弟子(コーカーリカ)が釈尊のもとに来て、舎利弗と目連の悪口を言いたてた。

「尊いお方さま!舎利弗と目連は、悪い欲望を起こしています。悪い欲望に支配されています」

釈尊は答えた。「まあ、そう言うな。そのように言うな。舎利弗と目連に対して、浄らかな信仰心を起こせ。舎利弗と目連とは温良である」

 

しかし彼は、師匠である釈尊の言葉を素直に聞こうとしなかった。釈尊に口ごたえして、同じ悪口を言いたてた。釈尊は、同じ言葉で答えた。さらに、もう一度、彼は悪口を繰り返した。それでも、釈尊の答えは変わらなかった。

釈尊の思いは、どこにあったのか。「どこまでも大きな心で、同志を信頼していきなさい」「同志はたがいに守りあい、団結していきなさい」。そういう厳しい戒めであったといえよう。

同志は皆、兄弟である。皆、家族である。団結第一で進みたい。全員が、ともに戦い、ともに勝利し、わが人生を最高に楽しみながら、生きて生きて生きぬいていただきたい。

(以上、2000.5.19韓日友好代表者会議 より)

怨嫉は「した方が」罰を受ける

正しくても怨嫉した方が罰を受ける。させた方ではなく、した方に罰が出る。そう御書に書いてある。「それが本当でも嘘でも」と書いてある。怨嫉する理由が何であっても、同志であれば功徳はマイナスになって出てくる。相手が間違っていれば、相手は因果の理法で裁かれる。人が裁くのではない。法が裁く。相手の成長を祈ってあげること。そうすれば自分も相手も良くなる。「幹部のくせに」と言わないこと。変な幹部もいるが、成長を祈ってあげること。「幹部のくせに」と言ったら怨嫉になる。

正しくても怨嫉になってしまう。成長を祈ってあげれば相手は変わらなくても自分は良くなる。相手がやるからこちらも怨嫉をやり返すことを『差し違え』と言う。これもよくあるが、両方とも功徳が消えてしまう。人のために功徳を消してはつまらない。人のことはほっとくか祈るか、どっちかしかない。感情をぶつければ怨嫉になる。御本尊に祈ってあげれば自分も相手も変わる。

(以上 河合師範 著「信心の基本を学ぶ」②より)

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