詮ずるところは天もすて給え~[開目抄下232ページ]

詮ずるところは天もすて給え~から始まる以下の開目抄の御文は有名です。

しかし、この度私は、「身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ」の部分を身に染みて感じることがありました。

自らすすんでお世話に当たった部員さんの件で、心身共に疲弊する中、限界を感じるようになり、周囲の同志の無関心さに憤りを感じてしまい、感情的になってしまったのです。

今、痛く反省していますが、「身子=舎利弗」の心情に強く思いをいたした次第です。

魔の存在は、実に、「最も弱いところを責めて来る」ということも実感しました。

これからは、個人の狭い信心から脱却して、師匠の大境涯に迫る信心が不可欠であることを銘記しています。

『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。(開目抄下232ページより)』

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