観心本尊抄・受持即観心|御書全集 246ページ

観心本尊抄(御書全集246ページ)の受持即観心について述べられたページです。

清浄身を生ず此の三種の身は人天の福田なり」等云云。

夫れ以れば・釈迦如来の一代・顕密・大小の二教・華厳・真言等の諸宗の依経往いて之を勘うるに或は十方台葉・毘盧遮那仏・大集雲集の諸仏如来・般若染浄の千仏示現・大日金剛頂等の千二百尊・但其の近因近果を演説して其の遠因果を顕さず、速疾頓成之を説けども三五の遠化を亡失し化導の始終跡を削りて見えず、華厳経・大日経等は一往之を見るに別円四蔵等に似たれども再往之を勘うれば蔵通二教に同じて未だ別円にも及ばず本有の三因之れ無し何を以てか仏の種子を定めん、而るに新訳の訳者等漢土に来入するの日・天台の一念三千の法門を見聞して或は自ら所持の経経に添加し或は天竺より受持するの由之を称す、天台の学者等或は自宗に同ずるを悦び或は遠きを貴んで近きを蔑みし或は旧を捨てて新を取り魔心・愚心出来す、然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり。

問うて曰く上の大難未だ其の会通を聞かず如何。

答えて曰く無量義経に云く「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」等云云、法華経に云く「具足の道を聞かんと欲す」等云云、涅槃経に云く「薩とは具足に名く」等云云、竜樹菩薩云く「薩とは六なり」等云云、無依無得大乗四論・玄義記に云く「沙とは訳して六と云う胡法には六を以て具足の義と為すなり」吉蔵疏に云く「沙とは翻じて具足と為す」天台大師云く「薩とは梵語なり此には妙と翻ず」等云云、私に会通を加えば本文を黷が如し爾りと雖も文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」云云、我等が己心の声聞界なり、「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」、妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや、宝塔品に云く「其れ能く此の経法を(如来滅後五五百歳始観心本尊抄・御書全集246ページより引用)

受持即観心・釈尊の因行果徳の功徳についての関連指導

小説『新・人間革命』大道13に、釈尊の因行果徳の功徳について、山本伸一は、以下のように語っています。

「今日は、わかりやすくお話しさせていただきます。釈尊は、さまざまな修行を積み、そして、その結果として仏になられた。それを因行果徳といいますが、その功徳、福運は無量無辺です。日蓮大聖人は、"この釈尊の因行果徳は、ことごとく題目に具わっており、題目を受持するならば、自然に、その功徳を譲り受けるのだ"と仰せになっています」

「観心本尊抄」の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(御書二四六ページ)の御文を、平易に彼は語ったのである。

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