檀越某御返事 座談会御書の講義(2016年12月度)

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檀越某御返事(だんおつぼうごへんじ)の今回、座談会御書の拝読範囲は、有名な御文、「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」からはじまる部分です。苦難の渦中にあっても、主君に仕えること(仕事)が、法華経の修行であると捉えて、現実社会での勝利を述べられています。

しかしながら、拝読範囲の前半における、三度目の流罪の危険性の報告に対して、「百千万億倍の幸い」と仰せになるご境涯を拝することも重要です。

日蓮大聖人のご指導、仰せの全ては、経文どおりに幾多の大難に遭われ、これらを全て乗り越えられて来た実証が、「確たる裏づけ」となっています。なんと尊く、凄いことでありましょう。

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檀越某御返事の背景

本抄は弘安元年(1278年)4月11日、ある在家の門下に宛てられたお手紙です。ある在家の門下がどのような門下で、その人の背景なども具体的に不明であることから「檀越某(だんおつぼう)」とされています。

ただ、本抄の内容からして、幕府の動きを知り得る立場にあった門下であったこと。そして、「御みやづかい」とあることから、主君に仕える武士だったのではないかと考えられます。

日蓮大聖人が、文永二年(1274年)に佐渡流罪を赦免になって身延に入られて以降、弟子達による弘教が広がる一方で、4年後の弘安元年になると、これに呼応して障魔が競い起こる状況となりました。

そうした中である在家門下(檀越某)が、権力の魔性の動きをいち早くつかみ、大聖人の身に、伊豆流罪、佐渡流罪に続く三度目の流罪の危機が迫っている、という情報をお伝えしたのです。本抄はそれに対する御返事です。

大聖人は三度目の流罪が現実になるのであれば、百千万億倍の幸い、と、仰せになり、ゆるき行者、すなわち、怠慢の行者ではなく、本物の法華経の行者の証しとなる、との大確信を述べられています。

そして、雪山童子や不軽菩薩のように、不惜身命の闘争を貫かれる決意を語られ、当時、大流行していた疫病や老衰で死ぬのであれば、国主の迫害を受けて法華経に殉じていく、との覚悟を示されています。

最後に本抄を与えられた門下に対して、いかなる状況にあろうとも、今のまま、主君に仕えることが、法華経の修行であると捉えて、現実社会で勝っていくよう教えられ、本抄を結ばれます。そして、この最後の部分が今回の座談会御書の拝読範囲となっています。

今回の拝読御書

『御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり(御書:1295ページ7行目から8行目)』

通解

宮仕えを法華経の修行とおもいなさい。経に「一切世間の治生の産業は皆、実相と相違背しない」と説かれているのはこのことである

檀越某御返事の講義(解説)

日蓮大聖人は弘通の故に、経文どおりに幾多の大難に遭われました。開目抄で「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに 二度にをよぶ(御書200ページ)」とおおせのとおりであり、国家権力による、命に及ぶ大難を二度も受けきられ、乗り越えられました。

その上で、本抄前半では、危機が予想される「3度目の難」が現実になるのであれば、「百千万億倍の幸い」であると仰せになっています。法難に挑まれる覚悟を、「大難よ望むところだ」と、毅然たる態度を表明されています。

御みやづかいを法華経とをぼしめせ

本抄をいただいた門下が具体的にどのような苦境に置かれていたのかは定かではありませんが、大聖人の門下であることで、重大な危険にさらされかねない状況の中、真面目に誠実に勤務していたのだと想像されます。

故に大聖人はこの門下に対して、拝読御文の直前で、日々真剣に仕事を果たすことが、そのまま一日中常に法華経の修行をしていることになると仰せになっています。

そして「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」。すなわち、日々主君に仕えること、自分の仕事を「法華経の修行」と思っていきなさいと、かさねて教えられています。

苦悩が渦巻く現実。しかし、そこを離れて仏法はありません。自らの使命の舞台での苦闘こそ、自身の境涯を向上させる仏道修行となるとの仰せです。

続く御文で、法華経の文の主旨を天台大師が説明した「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とのことばを記されています。これは法華経をたもった人の功徳を述べた一節です。

すなわち、「あらゆる一般世間の生活を支える営み、なりわいは、すべて実相、すなわち妙法と相反することはない」ということです。つまり、仏法の理念と、現実世界の政治や経済が本来目指すべき目的観は、根本において一致しており、社会の営みといってもその目的は、どこまでいっても人々の幸福にあるということなのであります。

そして、妙法には、幸福構築のために、「人間一人一人の生き抜く力」を開き顕す力用があるのです。

信心を根本とした私たちの行動は全て、妙法の光明に照らされて、希望と幸福の方向へと価値創造していけるのです。どんな職場どんな立場であっても、自分らしく人のため社会のために行動していく姿勢を共々に確認して参りましょう。

檀越某御返事 講義のポイント

信心即生活(しんじんそくせいかつ)、そして、仏法即社会(ぶっぽうそくしゃかい)という観点が、今回拝読する檀越某御返事の講義のポイントになります。

信心即生活

私たちが信仰を実践し貫いていく舞台は、どこまでいっても日々の生活の中にあります。信心根本に、現実社会で戦い、勝っていくのが日蓮仏法です。初代会長の牧口常三郎先生は、仏法は生活法である、と提唱されました。そして、人の生き方、振る舞いの中に仏法があることを訴えられていきました。

第二代会長の戸田城聖先生は、御みやづかいを法華経とをぼしめせ、という本抄の一節を拝して、次のように指導されました。「自己の職業に、人一倍打ち込もうともせず、ただ漠然として、信心していけば功徳があらわれて、なんとか成功するであろう、などと考えるのは、これ、大いなる誤りである」

いうまでもなく、私たちが信心しているからというだけで、苦労もせずに簡単に仕事で成功するというわけではありません。戸田先生は常々、信心は一人前、仕事は三人前と、信仰者としての姿勢を厳格に示されています。もちろん、仕事をとりまく環境は、当時とは変わっていますが、信仰者としての生き方の根本の精神は変わりません。信心しているからこそ誰よりも賢明に仕事に励むべきであるのです。

第三代会長の池田大作先生は、小説 新・人間革命で次のように綴られています。『「信心即生活」であり、「信心即仕事」である。また、「信心即人格」であるーそう心を定め、真剣勝負で仕事に取り組むなかに信頼が生まれ、広宣流布の広がりもある。信頼というのは、一朝一夕に築かれるものではない。日々の行為の、地道な積み重ねのなかで築かれていく。そして、その信頼こそが、人間関係の堅固な礎となるのだ。(「新・人間革命」第27巻248ページ)』

私たちは、信心しているからこそ、仕事にも真剣に取り組みます。また現実生活の中で勝利の実証を示そうと日々、努力を重ねていきます。実はその過程で、人々の信頼も厳然と築かれていく、ということを、先生は教えて下さっているのです。信心即生活、信心即仕事、信心即人格との指針を旨に日々の課題に挑戦しながら、広布拡大に邁進してまいりたいと思います。

仏法即社会

もう一つのポイントは信心即生活を別の側面から捉えた、仏法即社会、という観点です。仏法は歴史上、出世間、すなわち出家して世間から離れたところで修行するものと、考えられてきました。しかし、仏法とは本来、現実の社会や生活からかけ離れたところにあるわけではありません。どこまでも現実に根ざし、むしろ現実を変革しゆくのが、真の仏法です。

大聖人の仏法では本有常住・常寂光土と説いています。どこか遠くに理想の国土があるのではなく、自分が広布に戦うところを寂光土と輝かせていけるのです。池田先生は次のように指導されています。「自分の地域は、一切の責任を持って守っていく。わが地域に根を張っていくことだ。足元の地域を大事にしていかねばならない。自ら率先して、信頼と友情光る地域革命を成し遂げていこう!自分がいる地域の、あの方と、どう心を通わせるか。この方と、どう理解し合い、支え合っていくか。それが大切だ。よき隣人として、親しまれ、慕われていく。これが仏法即社会の生き方である。(聖教新闇2013年4月13日付)」

地域貢献、そして地域革命こそ新時代の広布拡大であると確信します。世界広布新時代・青年拡大の年の幕開けに向けて、身近な友と信頼を結び、我が地域に対話の花園を広げていく。そして、仏法の慈悲の精神を社会に活かし展開しゆく、信心即生活・仏法即社会の実証を堂々と示して参ろうではありませんか。

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